東京高等裁判所 昭和38年(ラ)15号 決定 1964年1月28日
抗告人 田中治男(仮名)
相手方 佐藤昌子(仮名) 外一名
右両名法定代理人親権者母 田村節子(仮名)
主文
本件抗告を棄却する。
抗告費用は抗告人の負担とする。
理由
抗告代理人は、「原審判を取り消す。相手方佐藤昌子、同三郎両名の本件扶養の請求を棄却する。」との裁判を求め、その理由として、別紙抗告理由書記載のとおり主張した。本件抗告の不服理由の要旨は、別紙抗告理由書(3)の(一)ないし(四)記載のとおりと認められるので、これについて順次左のとおり判断する。
(3)の(一)について、
相手方佐藤昌子、同三郎両名の親権者田村節子の素行が余りよくなかつたことは、本件記録により窺えるが抗告人との離婚原因が、抗告人の主張するように、節子の不貞行為にあつたとの事実は認めることができないので、この点に関する抗告人の主張は採用できない。しかし、本件記録中の戸籍謄本、調停調書謄本、家庭裁判所調査官神谷敏行、同伊東聖展の各調査報告書によると、次の諸事実を認めることができる。
抗告人は昭和一九年二月二七日挙式のうえ、節子(当時は佐藤の氏であつた)と事実上の結婚をなし、昭和二一年五月二一日入夫婚姻の届出をなし、両者の間に同年一〇月二〇日相手方昌子が、昭和二五年一月一日相手方三郎が出生し、長崎県松浦市内で雑貨商を営んできたが、抗告人は温和な性格であるのに対して、節子は派手好みで勝気なところがあり、次第に夫婦の間に風波を生ずるに至つたため、昭和二七年五、六月より別居し、同年一〇月一七日長崎家庭裁判所佐世保支部で、相手方両名は母である節子が親権者となり、その監護養育にあたることを定めて調停による離婚が成立したが、その際相手方両名を扶養する費用の負担に関しては別に明確な取りきめをしなかつた。抗告人や節子の親族は、がんらい右離婚には反対であり、離婚はむしろ節子の希望に出たものであつた。また節子は幼少の頃父母に死別したが、父の所有していた相当な不動産を相続によつて取得し、かなり裕福な生活をしてきたものであつて、抗告人との離婚にあたり、親族の仲介で節子名義で所有する佐藤家の田畑、山林、原野等を抗告人と節子との間に二分する案が出されたこともあつたが、不成立に終り、結局節子は、抗告人に対し手切金の趣旨で金二〇万円を支払うことを約し(その頃内金五万円のみは現実に支払われたが、残金一五万円については履行されなかつた)、同時に抗告人は佐藤家の財産はすべて節子に保有させることを承諾した。かくて、節子は昭和二八年六月郷里松浦市を去つて上京する頃までは、生家にあつて雑貨商を営み、相手方両名の親権者として監護養育し、その扶養の費用を負担するにたる十分な資力をもつていたが、これに反して抗告人は離婚後昭和二九年九月海上自衛隊に入るまでは、叔父の店の手伝などをして生活し、ほとんど無資力の状態であつた。
上記認定のような抗告人と節子との離婚の経過、当時の双方の資産及び生活状態から判断すれば、抗告人と節子との間では親権者となつた母節子が抗告人に先んじて相手方両名を扶養する義務を負うとの合意が暗黙になされていたものと解するを相当とするので、本件扶養料の請求を争う抗告人の心情は容易に理解できるところである。しかし、未成熟の子に対する父母の扶養義務は、血族である親子関係そのものから生ずるもので、いわゆる生活保持義務であり、夫婦親子は一体の共同生活をなすことを前提とし、その生活の程度は両親と子と同一であるべきものである。両親が離婚した場合には、共同生活が破壊されるので、両親の一方のみが未成熟の子の親権者となり、直接監護養育をなすのを原則とするけれども、扶養は被扶養者のための問題でもあり、親権や事実上の監護養育ということとは分離できることがらであるから、親権の帰属や両親のいずれが監護養育をしているかということとは別個に、扶養の必要度、両親のそれぞれの資力その他一切の事情を基礎として、その順序、程度又は方法を定むべきものであり、また右の事情に変更を生じたときは変更された新たな事態を考慮してこれを決定しなければならない(民法第八八〇条参照)。
他方、被扶養者が扶養される必要がある場合には、扶養義務者同志の間で扶養義務についての合意がなされ、その義務がない場合でも、被扶養者に対しては扶養の義務がないと拒むことはできないものといわなければならない。
これを本件についてみると、上記認定の離婚当時における扶養関係者の事情は、次のように甚だしく変更されたことが明らかである。すなわち、前掲各証拠のほか、田村清の戸籍抄本、○○製紙株式会社経理課長田川幸男、松浦市長春藤猪間吉及び館山航空基地隊館山経理隊長山本光夫の各回答書、抗告人及び相手方両名の親権者節子に対する原審での各審尋の結果によると、次の諸事実を認めることができる。
節子は昭和二八年六月頃上京し、喫茶店やうなぎ屋等で働いたが、その後相手方両名を養育しながら、美容学校に学んで美容師の資格を得た。昭和三三年節子は田村清と再婚しその間に一子をもうけ、相手方両名を含めて五人で杉並区内のアパートに同居している。節子は上京以来充分な収入がなかつたため、郷里に所有していた不動産の主要なものはほとんど売却して生活費に充て、美容師の資格を得てからは一時パーマの闇営業により収入も多少増加したことがあつたけれども、保健所から無許可営業を警告されてこれをやめ、その後は幼少の子をかかえているため働くことができず、僅かに内職によつて一ヶ月金二、三千円の収入を得るのみで、田村の収入により相手方両名を含む五人の生活を維持してきた。田村は昭和三六年八月から○○製紙株式会社に勤め、月収手取三万円位であつたが、同会社が倒産したため職を失い、以来臨時の仕事でいくらかの収入を図つている状態である。相手方昌子は昭和三七年三月中学を卒業したが、昼間はアルバイトをしながら、夜間定時制高校に通つており、その収入は僅かで同人一人の生活費をまかなうにはとうていたりない。相手方三郎は中学一年で身体が弱い。節子は上記のように先代から相続した不動産を大部分処分し、昭和三三年頃には郷里の家屋敷を妹の佐藤玲子に代金八五万円で売却し、当時数回にわたつて右代金を受領したが、右金員も生活費に費消し、いわゆる売り食いを続ける状況で、親子五人の生活は苦しくどうやら食べている状態である。それでも節子は現在なお郷里に宅地二五一坪、田六畝余、畑七反四畝余、山林五反余、原野一町二歩余を所有しているけれども、その所在は山奥の僻地であるため、売却するにも買手がなく、またその評価額は右不動産を合計しても僅かに二〇万円余にすぎない。一方抗告人は、昭和二九年九月海上自衛隧の航空隊に就職し、順次昇進して三佐となり、機長を勤めている優秀なパイロットで、昭和二八年一二月頃、現在の妻房子と再婚し、その間に長男和男(昭和二九年一〇月一五日生)二男幸男(昭和三一年一月一一日生)の二児があり、家族四名で館山市の自衛隊官舎に居住していたが昭和三七年一一月岩国市の自衛隊航空隊に転勤し同市に転居した。抗告人は不動産等の資産はなくその俸給で家族四名が生活しており、その月収は一尉当時で手取四万八、〇〇〇円位(内金八、〇〇〇円は航空手当等)である。
上記認定の事実に徴すれば、本件扶養料請求の調停申立の日の後であること記録上明らかな昭和三五年六月一日当時においては、抗告人と節子との離婚当時の事情は一変し、節子には相手方両名を扶養するに充分な資力を欠くに至つたのに対して、抗告人には扶養の余力を生ずるようになつたものと認めるのを相当とする。このような事情の変更により、相手方両名が抗告人からの扶養を必要とするに至つたことについては、節子にその責任の大半を帰せしむべきものであることは容易に窺えるところであるけれども、節子にその帰責事由があるからといつて、父である抗告人としては扶養権利者である相手方両名に対する扶養義務の負担を免れることのできないことはもちろんである。
そして、上記認定の抗告人と節子との双方の資産、収入、生活状態その他本件に顕われた一切の事情を考慮すれば、抗告人が相手方両名に対して支払うべき扶養料の額は相手方昌子の分は、上記昭和三五年六月一日から高校卒業の昭和四〇年三月までは一ヶ月金一、五〇〇円(高校在学中は中学在学当時よりも扶養の需要度を増すけれども、相手方昌子はアルバイトにより僅かながら収入を得ているから扶養料の増額を認めない。)、相手方三郎の分は、昭和三五年六月一日から昭和三七年一二月までは一ヶ月金一、五〇〇円、昭和三八年一月一日から中学卒業の昭和四〇年三月までは一ヶ月金二、〇〇〇円、同年四月一日から高校卒業の昭和四三年三月までは一ヶ月金二、五〇〇円の割合で、毎月分をその月の五日に支払うこととし、すでに右弁済期の到来した分は、即時支払うのを相当と認める。従つて右と同趣旨の原審判には抗告人主張のような違法の点は認められない。(抗告人両名が高等学校に入学せず、または中途退学した場合は、その金額は変更される関係にあることはもちろんである。)
(3)の(二)について、
原審判は、抗告人が相手方両名に対してそれぞれ支払うべき扶養料の額を定めるに当つて、前段認定の諸事実を考慮したまでのことであつて、抗告人が主張するように、田村が償うべき責任を抗告人に転化したものでないことは、原審判と上記判示によれば明らかであるから、抗告人の右主張も採用できない。
(3)の(三)について、
抗告人の主張事実のうち、相手方両名の親権者である節子が先代から相続した不動産を所有していたが、昭和三三年頃その一部の不動産を妹である佐藤玲子に代金八五万円で売却し、当時数回に亘つて右代金を受領したことは、前段認定のとおりである。しかし、節子は右金員を相手方両名を含めての生活費に費消してしまつて、もはや相手方両名を扶養するに充分な資力を有しないことも、前段認定のとおりであつて、右認定を動かし、抗告人の主張するように、相手方両名が昭和三四年一月から昭和四一年一月まで一人一ヶ月金五、〇〇〇円の生活費を要するとして、その生活を保持するにこと欠かない程度の資産と収入があるとの点は、これを認めるにたりるなんの証拠もないので、右主張も採用できない。
(3)の(四)について、
抗告人の収入、家族構成、生活状態が抗告人主張のようなものであつて、抗告人が裕福な生活を送つているものでないことは、本件記録に徴して容易にうかがえるところであるけれども、抗告人一家が相手方等一家以上の苦境にあつて原審判が定めた扶養料の負担が抗告人にとつて不可能である旨の抗告人の主張事実はこれを認めうる証拠がない。
以上のとおりで、原審判には、結局において、抗告人主張のような違法は認められないので、本件抗告は理由がないものとしてこれを棄却することとし、抗告費用は抗告人に負担させて主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 村松俊夫 裁判官 伊藤顕信 裁判官 杉山孝)
別紙
抗告理由書
(1) 身分関係に付ては原決定の通りである。
(2) 元来夫婦親子間の生活保持義務は夫婦親子の協同生活を前提とするものであり未成年の子に対する監護教育の義務もまた親子間の協同生活を前提とするものである。協同生活と云うことが単に一家に同居すると云う意味でなく経済単一組織下に於ける生活機能を指称することは云うまでもない。
両親夫婦が離婚した様な場合夫婦親子の正常な協同生活の基礎が破壊され父又は母の一方が親権者として指定され子の監護教育其の他財産管理に当る必要があるが親権者になつた父又は母は依然子との協同生活を維持するが一方親権者に非る父又は母は子との協同生活の前提を失い親権上の権能を失うと共に子に対する生活保持の権能も喪失し単に親族扶養義務者となるに過ぎない(高松高裁昭和三一年八月決定参照)。
(3) 仮に原審決定理由の如しとしても本件に付ては次の各事由を考覆参酌して其の程度を決定すべきである。
(一) 抗告人と田村節子(相手方親権者)との婚姻は入夫婚姻であつた即ち抗告人は婚姻により妻の家に入り離婚により妻の家を去り実家に復籍した。而も抗告人は婚姻後八年間身を粉に刻苦精励家屋まで新築したが離婚と共に一物も得ず実家に復し妻節子は一切の家産を保有し相手方両人を養育することを約したのである。
(別紙附属調停調書参照)而も離婚原因は妻の不倫不貞にあつた。
(二) 親権者は祖先伝来の一切の財産を保有し抗告人と離婚後上京して美容学校に入学美容師の資格を得て相当の収入を挙げ相手方二児の生活保持に何等事欠く状態ではなかつたが後に田村清と再婚し其の間に一子を出産し幼児を抱えて充分働くことが出来ない。それでも一ヶ月二万乃至三万円の収入があることは原審認定の通りである。その上夫である田村清も相当の収入を挙げて居るので一家の生活状態は原審認定の通りサラリーマンとしての普通の生活状態を維持して居るのである。節子が田村清と再婚後一子を挙げ幼児を抱えて充分な働が出来ないため多少其の収入に影響することは当然考えられる事であるが其れは田村清が償うべきであり其の責任を抗告人に転化せしめることは筋違いである。
(三) 節子は前述の通り祖父伝来の財産を保有する外抗告人と婚姻中抗告人が新築した家屋まで含めて保有し其の収入一切を収得して居たが昭和三十三年一二月其の所有不動産の内
松浦市志佐町字○○○○(現状何れも宅地)
田 ○○○○番の三 二畝八歩
〃 ○○○○番の四 一歩
〃 ○○○○番の一 六畝八歩
外同地上建物を
松浦市大字○○ 佐藤玲子
に代金八五万円で売却し昭和三三年一二月内金三〇万円、同三四年五月残金五五万円を受領した。相手方等に対する生活保持に仮に一ヶ月一人五、〇〇〇円宛を要するとしても昭和四一年一月迄(昭和三四年一月より八五ヶ月)は生活保持にこと欠く筈はない(この点佐藤玲子に付き御審問相成度)。
(四) 一方抗告人一家は
妻 房子
長男 和男(八歳)
二男 幸男(六歳)
の四人家族で月収税込四万三、〇〇〇円である外に搭乗手当が少額あるが空中勤務者は一定の栄養カロリーを必要とするので搭乗手当はこれを償う経費であつて一家の収入とは見られない。館山勤務中は官舎があり勤務場所も近く交通費を必要としなかつたが昨年岩国市に転住以来官舎もなく家賃四、〇〇〇円の借家住居の上に勤務地内まで往復毎日六〇円のバス賃を要し妻は病弱一家四人の生活状態は相手方一家に勝る苦境であり到底原審決定の如き負担は不可能である。
依て原審決定を取消し相手方の請求棄却の御決定を求め仮に棄却の理中がないとしても適当に御変更相成度。
参考
原審(千葉家裁館山支部 昭三五(家)一〇六三号 昭三七・一二・一七審判 認容)
申立人 佐藤昌子(仮名) 外一名
右両名親権者 田村節子(仮名)
相手方 田中治男(仮名)
主文
相手方は、申立人昌子に対し金四万六、五〇〇円を直ちに、且つ昭和三八年一月から同四〇年三月まで一ヶ月金一、五〇〇円宛を毎月五日限り、申立人三郎に対し金四万六、五〇〇円を直ちに、且つ昭和三八年一月から同四〇年三月まで一ヶ月金二、〇〇〇円宛、同四〇年四月から同四五年三月まで一ヶ月金二、五〇〇円宛を、毎月五日限り、各々支払わなければならない。
理由
一、本申立の要旨は、相手方と田村節子(旧姓佐藤)とは、昭和一〇年二月二七日挙式し事実上の結婚をし、同二一年五月二一日正式に婚姻し、両者の間に、同二一年一〇月二〇日申立人昌子が、同二五年一月一日申立人三郎が、それぞれ出生したが、その後両者間に不和を生じ同二七年五、六月頃より別居し、同二七年一〇月一七日長崎家庭裁判所佐世保支部において離婚調停が成立し、同年一二月九日届出されたがその離婚調停条項により、右田村節子が申立人等の親権者となり、それ以来申立人等は母親節子の手許において養育されて来たのであるが、節子に見るべき財産及び収入がないので申立人等の養育費に困る状態であるので、相手方は昭和三四年五月一日から申立人等が成年に達するまで、各人に対し一月五、〇〇〇円宛の扶養料を支払うよう審判を求める」と云うのである。
二、相手方と田村節子とが、昭和一九年二月二七日挙式事実上の結婚をし、同二一年五月二一日正式に婚姻し、両者の間に同二一年一〇月二〇日申立人昌子が、同二五年一月一日申立人三郎が出生したが、同二七年五、六月頃より別居し、同二七年一〇月一七日長崎家庭裁判所佐世保支部において離婚調停が成立し、(届出は同年一二月九日、その調停条項により母親節子が申立人の親権者となり、以来申立人等は母親節子の許で養育されて現在に至つていることは、家庭裁判所調査官神谷敏行の調査報告書及び戸籍謄本によつて認められる。
三、両親の未成熟の子に対する扶養義務は直接の血のつながりである親子関係自体より生ずるもので、他の親族間の扶養の義務とはその性質を異にするものである。即ち両親は自分等と子とを一体にして生活を維持してゆくべきものであり、その生活の程度は親子とも同一であるべきものである。仮令不幸にして両親が離婚して夫婦と子との事実上の一体の生活が破壊された場合においても、親の未成熟の子に対する右の扶養義務には何等の影響を及ぼすものではない。父母共に婚姻中と同様の義務を負うものである。ただ父と母が離婚すれば夫婦の共同生活が終了するので、何れか一方が子の親権者となり直接養育に当ることになるのが普通であるから、他方は親権を失い、直接養育することができないことになるけれども、この場台においても未成熟の子に対する扶養義務を免れるわけのものではない。この場合には養育の費用を負担することによつてその義務を果すべきである。親権と扶養の義務とは直接関係のないものである。
四、従つて、相手方と節子とが離婚したとき、母親節子が親権者となり、以来申立人等は節子の許で養育されて来たことは当然であるとしても、相手方も亦その養育の費用を負担することによつてその扶養の義務を果すべきである。そうだとすると、相手方の負担すべき扶養費用はどの位が妥当かと云うことになるが、父親である相手方と母親である節子との資産、収入、生活状態、その他一切の事情を比較考慮して決定さるべきものである。而して、相手方と節子と双方の生活状態、資財、収入等は家庭裁判所調査官の報告、相手方及び申立人等親権者節子審尋の結果、その他本件記録に現われた資料によると次のとおりである。
五、母親節子は、昭和二八年上京、申立人等を養育しながら二、三の職についた後、美容学校に学び美容師の資格を得た。その後、昭和三八年に田村清と再婚、その間に一子をもうけた。現在は、申立人等も田村の世話になつており、東京のアパートに総計五人で居住している。節子は上京以来充分の収入がなかつたので、郷里の不動産を処分して生活費に充当して来た。美容師の資格を得てからは、内職として稼いだこともあるが、現在は幼少の子があるため充分働くことも出来ず、僅かに内職として、月二、〇〇〇~三、〇〇〇円を得るのみで、田村の収入によつて五人の生活を維持している。田村は三六年八月より○○製紙株式会社に勤め、月収手取三万〇、〇〇〇円程度であつたが、(○○製紙回答)最近同会社が倒産したため、職を失い、現在は臨時の勤めにより収入を図つている状態である。申立人昌子は三七年三月中学を卒業、昼間働きながら、夜間定時制高校へ通つているが、その収入は僅かで、勿論本人一人の生活費にも足りない。申立人三郎は中学一年生で比較的身体が弱い状況である。以上のような状態で、その生活状態は普通サラリーマンの生活状況であり、とても楽ではないが、どうやら食べていつていると云つたところである。節子は上記のとおりその所有の土地家屋を既に処分して生活費に消費しており、只松浦市長の回答によれば土地台帳上節子名義の不動産は宅地二五一坪、田六畝余、畑七反四畝余、山林五反余、原野一町二反余があることになるが、長崎家裁佐世保支部調査官の報告によれば、その所在は山の奥の又奥と云つたところで、売却するにも買手がないし、又あつても安い価額でなければ売れない状況である。
六、相手方は現在海上自衛隊航空隊の三佐で機長を勤め優秀なパイロットである。昭和二八年一二月一八日再婚し、妻との間に二男子がある。家族四名で館山市の自衛隊官舎に居住していたが、昭和三七年一一月中旬岩国へ転勤になり、岩国の自衛隊官舎へ転居した。相手方は不動産等の資産はなく、その俸給で家族四名が生活しており、その月収は館山航空隊館山経理隊長よりの回答によれば、三七年五月一尉当時で(その後に三佐に昇進した)航空手当等を含めた総額で手取四万八、〇〇〇円位(航空手当等を除くと、四万〇、〇〇〇円位)であることが認められる。
七、以上のとおりの状況であり、以上の資料の外館山市福祉事務所長よりの生活保護法による生活費基準額等についての回答書その他本件記録に現われた一切の資料を綜合して考えると、相手方の申立人両名に対する扶養料の負担は次の額が相当であると認める。申立人等は昭和三四年五月一日からの分を請求するが、本調停の申立があつたのは昭和三五年五月一三日であり、調停期日呼出状が相手方に送達されたのは同年六月一日と認められるので、扶養料算定の始期を昭和三五年六月一日とする。扶養料の申立人昌子の分は、昭和三五年六月一日から中学卒業の同三七年三月までは一ヶ月金一、五〇〇円宛、中学卒業までは扶養料の増額を必要とするが、一方申立人昌子は中学卒業後高校へ通学しながら就職し、僅かながら収入を得ていたのであるから、それらの点も考慮して、同三七年四月から高校卒業の同四〇年三月までは一ヶ月金一、五〇〇円宛とする。申立人三郎の分は、昭和三五年六月から本審判の月である同三七年一二月までは一ヶ月金一、五〇〇円宛、審判後の同三八年一月から中学卒業の同四〇年三月までは一ヶ月金二、〇〇〇円宛、中学卒業後同四〇年四月から高校卒業の同四三年三月までは一ヶ月金二、五〇〇円宛とする。そして毎月払の分は前払として毎月五日限り支払うこととし、昭和三七年一二月分までの分は既に支払期日が到来しているのであるから、直ちに支払うべきものである。
尚将来事情が変化した場合には、当事者双方共その変化に応じて審判を求めることができることは勿論である。
よつて主文のとおり審判する。